ごちゃごちゃと

本読む奴らは理屈ばかりうまくて腹が立つ、なんていう意見を聞いたが冗談ではない、多分多くの本読みは理屈でばかりモノを考え、いらぬ先読みや、無用な深読みすることには長けている。だがしかし、それを他人にわかるようにうまく口で説明できるほどには器用ではない。むしろ、考えすぎて何も言えなくなってしまうのが本読みであると思う。


自分のことを考えてみても、物心ついた頃から思い込みが強すぎていつもびくびくしている子どもだった。あのころ何におびえて暮らしていたかを今でもはっきりと覚えている。


二年生の頃は、先生にとっておきなさいと言われたプリントをもらう端から無くしていたことがいつばれるかとびくびくし、三年生の時は学級文庫の本をなくしたことがいつばれるかと毎日おびえ、頭の中ではどんな風にしかられるか、それを受けて自分がどんな風に泣くか、そんな自分をクラスの連中がどんな風にからかうかまで完全にシュミレートしてしまい、誰にも言えずに一人震えていた。その当時は他にも、兄たちにいじめられる、近所のガキ大将にいじめられる、親にしかられる、などなど実際にあったことの十倍くらいは頭の中の心配で作り上げており、無駄におびえる毎日だった。あのころの記憶はほとんどそれしかないくらいで、楽しかったことなど思い出せない。


小学校高学年になってある男と友達になる。そいつのことを最初は全く理解できなかった。
どうしてわざわざ信号が赤になるのを待ってから横断歩道をダッシュで渡るんだ?
自動販売機蹴ったらジュースが出るって、それ発明とか言ってるけどちがうよね?
廊下水浸しにして「逃げるぞ!」ってみんな見てるよ!絶対、後でばれるだろう。
どうしてわざわざ怒られるような事をする?そんなことしてあとからどんなことになるのか考えないのか?


一緒に行動しているうちに、自分の頭の中で考えるほどの最悪な事態にはそうそうならないことに気付く。むしろ大胆な行動は直接的に楽しい事に結びつく。この頃になると私も積極的に悪事を楽しむようになる。放課後、クラスの男子4,5人と理科室の徳用マッチを一人一箱づつ持って、火を点けたマッチ棒をぶつけ合うインディアンごっこは小学校時代の一番楽しかった行事(?)のひとつである。カーテンを燃やしかけて校長室まで謝りに行ったことも含めて。


頭の中の最悪シュミレーションは続けていたが、すくなくとも実人生は数倍おもしろくなった。楽しかった思い出のほとんどが軽い犯罪がらみだったりするのではあるが。


最悪なことなどめったに起こるものではない。「命取られるわけじゃなし」大概のことはやりなおしがきくものだ。ダメなら謝ればいい。そんなことを彼からは学んだような気がする。
彼との付き合いはその後も続き、高校では恋愛関連で大暴走、失恋を繰り返し、そのたびに相談される私は胸を痛めたが、彼は平気な顔で次の相手を探していた。


あいかわらず、私はぐちぐち頭の中で考えすぎる、しかし、考えるばかりではなく、時には勢いに任せてしまったほうが良いことも今の私は知っている。なんとかバランスがとれてきたんじゃないかなあ、とは思っている。


この文章もそうだ、きっかけは本読みが理屈っぽいかどうか、と言う話だったはずなのに、もうこの辺まで来ると何が書きたかったのかもわからない。でもきっと全部書きたかったのだと思う。これはこれでいいのだ。


読んでくれる人のためではなく、いろいろ思い出し、前に進むために、自分のためにこの文章を記す。

でも読んでくれたならありがとうございます。


彼はどうしたのかと言えば、今は東京にいるのだけれど、別居した娘に会えないのがさみしくて仕方ないと、この間飲みに付き合わされた。日曜の朝のアニメ、プリキュアを観るたび、娘を思い出して泣いているそうだ。

彼は筋金入りのスポーツマンで、娘にいつ会っても恥ずかしくないように常に肉体を最高のコンディションに鍛えているそうだ。それはそれで正しいことだと私も思う。


まあ、がんばれよ。俺もがんばる。俺もここからが正念場だ。